拝啓、期待していいかい?

自分で歩けるようになるための材料たち。抽象度高めです

2月18日

研修があるから、と呼び出されたのだろう。気が付くと初めて訪れる区立図書館にいた。雑誌ラックには様々な種類の雑誌。子供からも見える位置に官能雑誌が置いてあって不可解だった。雑誌ラックのちかくにある席につくと、私のほかにも何人か、研修のためにあつまった人たちがいた。見かけたことのある美少女、同い年ぐらいの女の子、私の3人だ。そこへ高塚さんがやってきて、私たちにプリントを渡した。今日はYahooの研修だろうか。みんなで席を立ち、図書館内を移動する。高塚さんの携帯に着信があり、もう一つ上の階の研修グループと合流することになった。4人でフロアの端にある小さな螺旋階段を上る。上にはもっと沢山の人たちがいた。今度は年齢層も性別もバラバラだ。席に着くとき、さりげなく渡辺さんを探したけれどいなかった。研修の続きがはじまるのかと思いきや、高塚さんは資料をとりに引っ込んでしまった。そこから先の記憶が曖昧だ。研修はまだ終わるどころか、始まってすらいないのに、私は「帰る」という選択をして図書館を出たらしい。図書館から最寄りの駅まで向かうバスに乗っている途中で、自分は荷物を何も持っていないことに気がついた。携帯も、筆箱も、リュックサックも、すべて図書館だ。戻らなくてはと思うものの、駅にはもうすぐに着くらしくバスは急な斜面を上り始めている。あああ、やってしまった。高塚さんに何も断らずに帰ってきてしまった。荷物はすべて置いてあるから彼女は私が帰ったなんて考えていないだろうけど……。ちょっとした捜索が行われているかもしれない。何もないといいのだが……。研修が終わっていないのに荷物もすべておいて出てきてしまうなんて、しかも現状に至るまでの自分の行動を思い出せないなんて、遂に私は頭がおかしくなったのだろうか。本当はそのまま帰りたかったが、荷物がないと家にも帰れない。バスを降りてからしばらく駅前をほっつき歩いていた。高台にある駅からはその町並みがよく見えた。といっても視界の半分ぐらいは線路が埋め尽くしているのだが。とその刹那、視界がモノクロになり、首を右へゆっくりと動かして視界に映るものを変えると、世界が荒れた。ちょうど電波の調子が悪いときのテレビのような、解像度の低い世界になった。やはり頭になんらかの支障をきたしているのだろか。不思議と穏やかな気持ちになった。しかしその現象はすぐに収まり、私の眼には今までと同じようにフルカラーの、美しい景色が広がっていた。人が入れそうにもない建物の裏側をみつけると、なんとなくそこに入り込んでみた。ブーツを履いていたが、構わず上る。一段と高くなった視界からは、夕焼けがきれいに見えた。図書館に戻らなければならない、と憂鬱な気持ちになっていると、一匹の犬が現れた。毛並みが整っていない、胴体の長い、人間臭い犬だった。私が犬にむかって「どうしようかね」と困った笑みを浮かべると「どうしたの?」と聞いてくる。私は図書館を出るに至るまでの思考回路や自分の行動をまったく覚えていないこと、それから先ほどの視覚異常について話した。犬は考える素振りもみせずに「それは○○だよ」と病名らしき名詞を告げた。残念ながら思い出せない。漢字五文字ほどの難しい言葉だった。「○○?」どうやら精神疾患の初期段階らしい。へぇ、と思いながら私は、精神病であることを告げられた自分が安堵していることに気が付いた。

2017

二年参りをする人混みに揉まれながら、大好きな人とあったかい梅酒を飲んでいたら年が明けた。

新年を一緒に迎えることができて嬉しい。嬉しいのだが、テレビやら何やらを全く見ない生活をしていたせいで年末の雰囲気を少しも感じずにここまできてしまった僕にとって、12月31日が1月1日になる瞬間は僕が願う以上に日常性に薄められてしまっていた。無念。

不規則な生活リズムのせいで時間感覚が狂っていたのも敗因の一つだった。深夜零時、そんな時間に一緒にいられるのは特別なはずなのに、僕の体は午後6時くらいだった。新年の特別感なんて薄れる一方である。これもまた無念。

とはいえ、やっぱり一緒に過ごせるのは嬉しい。他愛もない話をしながらときどき時間を確認して、形ばかりの「今年」を名残惜しんでみる。久しぶりにお酒を飲んで、少々楽しくなっていたようだ。
「あと8分だって」
「はやいなあ。さらば2016だね」
寒い寒いと言うからマフラーとカイロを貸してやると、「あったかい。もうこれがないと生きていけない」と言いながら顔をうずめていた。ちくしょう、かわいいじゃねーか。

 

気づいたら年が明けてたという事態は回避したものの、0:00と表示する画面に現実味を感じられないまま「あけましておめでとうございます」と言い合って少し笑う。今年も楽しく過ごせたらいいな、と思う。誘ってよかった。

日付が変わる前にお参りしたけれど、もう一度お参りしようと長蛇の最後尾に向かう。高校生の時の話とか、好きなバンドの話をしていたらあっという間だった。寒そうにしているのだけが心配だった。

「付き合わせてごめん。これで体調くずしたら申し訳ない」
「いいよ。それに体調くずしたら看病してくれるでしょ?」
「……頑張ります」
「おかゆ作ってとか言っても既製品買ってきた上によくわからないシロモノを提供してきそう」
「それは酷い、だけど否めない」

二礼してお賽銭を投げ入れ、ガラガラと鈴を鳴らし、拍手を二回。
一緒に手を合わせてお参りできたことがひたすらに嬉しいとかなんとか考えていたら願い事なんて思いつく暇もなかった。

そのあとはおみくじを引いて帰った。寒かったから適当なお店に入ろうかと思ったのに、深夜2時をまわっていたせいで目ぼしいところはすべて閉まっていた。全然来ない電車を待って何駅か移動してファミレスに入り、今話さなくてもいいであろうことをいろいろと話した。新年の抱負とか、一年の振り返りとか、そういう話は確かに僕たちには似合わなかった。形態素の話とか、プログラミングの話とか、お互いの過去について少しだけ話していたら4時半になった。

 

「今年もよろしくおねがいします」
「とりあえず、またすぐ会おうね」
「はい、良いお年を!」
「その挨拶は今じゃないけど良いお年を」


駅でそう言って別れた時にはもう5時になりかけていた。どうせなら初日の出も一緒にみたかったけれど、冬の日の出は遅い。日の出はまた今度だな、べつに初日の出じゃなくてもいいし。手を振って見送って、僕は明け方の街に踏み出した。家までは歩いて帰る。日常に溺れそうな僕の、ささやかな抵抗だった。

言の葉の呪

 

最近、僕のことを心配して「しっかり休んで」とか、「ちゃんとご飯たべて」と言ってくれる人が複数いる。とてもありがたい。

金銭的にきりつめる必要がある時、真っ先に切り捨てるのは食費だった。自分が何時間かの空腹を我慢すれば浮くお金、本を買って読んだほうが大変な価値になる。そう思ってよく昼食を抜いた。夕食を抜いた。そして、体調を崩した。

10月、11月と、寝込む日が多かった。それまでは、少しの風邪もひかない丈夫な体だったのに。

 

「ゆっくり休んで」「ごはんたべて」と言われ続けると自分の中にその言葉が浸透する。言われたその時は意識していなくても、仕事を片付けるために無理して夜更かししようとした時、お金がなくてご飯を抜こうとした時、ふとその言葉たちが思い出されるのだ。いや、「思い出す」というほどはっきりしたものでもない。なんとなく、自分は今寝なければならないしご飯をたべなければならない。そんな気持ちになって、そのあとの行動が規定される。

実際に眠くて仕方がないとか、そう言ってくれる人たちに余計な心配をかけたくないとか、そういう理由ももちろんあると思うけれど一番大きな理由は「言の葉」なのだと思った。

 

言の葉とは呪である。

 

何年か前の正月、親戚でごはんを食べていた時のことだ。たしかうなぎ重だった。次から次へとろくに噛みもせずぱくぱく飲み込んでしまう祖父に、母や祖母が「ゆっくり食べてくださいね」と声をかけ続けていた。僕はそれを聞きながら自分のぶんを食べる。

「お父さん、ゆっくりたべてくださいね」         ひとくち。

「そんなに早くたべないの」  ひとくち。

「食べるのはやすぎですよ」  ひとくち。

「よく噛んでから飲み込んでください」  ひとくち。

祖父にむけられた言葉なのに、僕の食べるスピードは遅くならざるをえなかった。みんなが食べ終わった時、僕は自分の分の半分も食べ終わってなかった。遅く食べるように促す言葉を聞きながら食べていたら遅くなった、と言ったら笑われた。

 

笑い事ではないのだ。これに似たようなことが、しかしこれよりも遥かに大きな規模で、時間感覚で起き続けている。言の葉は僕の中に染み込み、蓄積され、行動を縛る。同様に、僕のふとした言葉が誰かの中に染み込み、蓄積され、縛る。意識していなくてもそれだけの威力があるのだから、僕の言葉が誰かに「刺さった」場合、その言葉の持つエネルギーはどれほどか。

 

教訓めいたことを口にするようになった。知識を得ると世界の見え方が変わるとか、面白さの反映率を高められれば人生が楽しくなるとか、知らないままに生きていくのはあまりにも気持ちが悪いとか。真理だと思って吐き出す言の葉の頼りなさを、僕はあの4ヶ月間で誰よりも実感したはずだった。それなのに懲りもせず、或いは当時の痛みを忘れて、無責任な言の葉を撒き散らすようになった。そして「感動した」と、「刺さった」と、そう言われるたびに喜ぶのだ。僕の言の葉が誰かを縛り得たことに、そうとは気付かず喜ぶ。気づかぬふりをして喜ぶ。なんて恐ろしい、とも思えなくなってしまった。その変化は成長か退化か?そんなことはどうでもよろしい。僕自身が変化に取り憑かれた人間で、僕を変化せしめる有象無象を愛しているからで、つまり僕は愛されたいのだ。

 

 

 

1年前、年の瀬に立った僕はこんなことをいつものノートに書きつけた。

「変化は痛い、だがそれを受け入れずして何が『生きる』だ。」

変化に魅せられた。必ず苦しむと、ちぎれるほどの思いをすると確信しながらも、1年前の僕はその道を選んだ。

先生はこう書く。
「憎むべきは一つ処に安住しようとした僕の意志だ。だがそれを願わずして、何が『生きる』だ。」

 

出藍の誉れ。僕が安住を嫌う理由は、この短い文章にあるのかもしれない。

 

 

  

 

形だけ畏れて何になるというのだろう。鈍ってしまった神経では、言の葉の鋭さを感じることなどできないというのに。楽になりたいと願い続けた結果がこれ。猛省すらできなかった僕にできることなどないのだ。

安心して呪をかけ続ければ良い。いつか蓄積に苦しめられる日が来た時、過去の自分を憎めば良い。このツケはちゃんと育ち続けているだろうから。

久しぶり。どうしたんだよ。そんなに簡単に話せるようになっちゃってさ。その一字一句を吐き出すのにどうしようもない恐怖を覚えていた君はどこにいっちゃったの?そうやって言葉を勝手に定義して、そんなもんだから仕方がないって、しかもその流れぜんぶを無意識のうちにやってのけちゃう君なんて見たくなかったよ。あの四ヶ月間で得たもの、そんなに簡単に忘れちゃうんだね。苦しみから逃げたって仕方ない、いつかやってくる苦しみがどんどん大きくなるだけなんだ。それがわかっていながらも、今、苦しくなければそれでいいって?へえ。でも君は現にこうして、見せかけだけでも指摘されないと気が済まないみたいじゃあないか。なんとなくの違和感なんて生やさしいものじゃないよね。和歌を詠むのも、あまりにも無責任すぎて涙がでてくるよ。ねえ、「ことば」は一体どうしたの?なんでそんなに平気でいられるの?ねえ教えてよ。どうして僕ばっかりこんなに苦しい思いをしているの?

電気が消えても夜にはさせない①

前に進むために必要だから書く。誰かに評価されるためではなく、完全に自分のために書くのだ。評価されたいという気持ちが無いわけではない。でもそれは目的ではない。こうして明記しておかなければ自分がやりたいことも、やろうとしていることの目的も忘れてしまうような脆弱な私だから、こんなことになってしまったのだろう。

 

切迫感

 

書かなければ、という思いが込み上げ、私の内側から言葉を吐き出させる。それは文章になることもあれば、有象無象の何かにしかならないこともある。がらくたはバックスペースキーに飲み込まれ、辛うじてその形を保っているものだけを仕舞い込む。仕舞い込まれたものは知らない間に蓄積され、いつかその量の多さを目の当たりにした時、漸く私は愕然とするのだ。「ああ、こんなに多くの白紙を無駄にしてしまった」と。

それが「生きる」ということだろう、と信じ込んでここまで来た。言葉を吐き出し続け、自身の中身が飛び散る様を見ながら、吐瀉物がなすりつけられた少し前まで白紙だったものを見ながら、それでも僕はこの生き方が好きだった。考えることをしない人間はさぞ幸せなのだろう、羨ましいものだ、などと抜かしながらも陰では彼らを嘲笑していた。痛みを感じられることが他人よりも優れていることの証明であるかのように振る舞い、満面の笑みを浮かべながら痛い痛いと絶叫していた。周りの視線を気にしすぎていた僕は、手っ取り早く評価される道を選んでしまっていた。「コピー」言い訳はちゃんとあるんだ、少し聞いて欲しい。

 

これは私が、「僕」という一人称を使って書く最後の文章だ。